古山和男ミニコラム No.1 :NHK朝ドラ『半分、青い』と佐藤一斎の『言志四録』

『半分、青い。』と佐藤一斎の『言志四録』  

 2018年4月に始まった北川悦吏子作のNHKの連続テレビ小説『半分、青い。』は先日9月末に完結した。その最終回では、周到に用意されて張りめぐらされてきた伏線が見事に収束し、演出で仕掛けられた謎掛けも明らかにされ、このドラマの主題と制作の本意が確認できるようになっている。 


全部、青い 

 タイトルの『半分青い』とは、左耳の聴力を失ったヒロイン楡野鈴愛(すずめ)には傘に当たる雨音が半分しか聴こえず、空の半分が晴れているように感じられる、という意味であるが、最後の場面の背景は、雨でもあり晴れでもある「天気雨」が上がり、「全部、青い」空になっている。それは、鈴愛が律から誕生日に贈られた、雨音がよく聴こえるビニール傘によって、両耳に雨が聴こえるようになった、あるいは聴こえる気がするようになったからである。それは、この回だけ最後に流されるタイトル音楽の『アイデア』が、両耳で聴くことのできるステレオ録音になっているから想像できる。この雨音を模したような前奏は、片耳で聴くモノラル録音のように聴こえて違和感があったのが、ここで急に聴きやすくなるのは、そのような意図的な仕掛によるのであろう。歌詞にも「モノラルのメロディ」とある。  律がこの傘を贈ったのは、高校生のとき「律、左側に雨が降る感じ、教えてよ」と言われていたからである。これは、鈴愛の「いつも私の左に立って私の左耳になって、私を守って」という精一杯の告白であったが、それから紆余曲折の「ぐるぐる回り」の人生の遠回りの旋回を経て、やっとここで2人は結ばれたということである。この結末は、雨が降り始めたとき、律が自分の傘を鈴愛に渡して去って行くドラマの冒頭のエピソードで予告されている。

  また、鈴愛が律を異性として始めて意識して戸惑うのは、スカートに撥ねられた泥を律が自分パーカーで拭き取る時であるが、それも透明のビニール傘の下である。


ポリネシアン風の雨のメロディ

  聴こえて来る音の方向がわからなくて、高校の階段の下でぐるぐる回る鈴愛の姿が予告しているように、鈴愛と律が「ぐるぐる回り」であるのは、発明する「扇風機」「ゾートロープ(回転覗き絵)」「フィギアスケートのスピン(回転)」などで暗示されている。大失敗の初デートの明治村の金沢監獄での「拷問具」も「ぐるぐる責める」ものであるが、明治村には「蝸牛庵」という名の幸田露伴の家がある。注目すべきは、これらの「回転」と「渦巻き」は、すべて鈴愛と律を引き離そうとする障害を排除し、2人を結果的に結びつける役割を担っていることである。鈴愛が再上京するのは娘のスケートの夢のためであり、それには津曲(つまがり)の吹く法螺(ほら)がきっかけになる。これらの「ぐるぐる」があったからこそ鈴愛は律と再会して扇風機を一緒に開発することができたのである。「津曲」とは「ホラ貝」の「旋毛(つむじ)曲り」なのであろう。

  監督志望の前夫涼司の脚本『名前のない鳥』のを盗んで、鈴愛の離婚の原因を作り、自殺未遂に到るのは『追憶のかたつむり(蝸牛)』を撮った元住吉祥平である。キャラメルに「心が落ち着く」と漫画一筋で成功したボクテが言うのは、「グルグル」回れないのが「正方形」であるからであろう。  涼司の独身の3人の叔母たちは、糸車を回して人間の運命を決める3人の魔女のようである。鈴愛はこの糸車の針に刺されて100年眠って白馬の王子を待つ王女とは違い、100円ショップで時を過ごし、100年の恋も冷め果てたのである。

  鈴愛の漫画『神様のメモ』は、恋敵の伊藤清(さや)が神の手違いで律とすれ違い、高校卒業後38年目になってやっと再開する話であるが、そのときに律は既に鈴愛と「元の鞘」に収まっていて、「時すでに遅し」であるから、神はもとより鈴愛の味方なのである。「清(さや)」は「鞘(さや)」の暗示であり、清が狙うのは律と弓の的(まと)の「ぐるぐる」の同心円である。

  ビニール傘も「ぐるぐる回る」ものであるが、最終回の空の全部が青くなって、発せられる最後の台詞は鈴愛の「雨のメロディや」である。これでマリンバを使った南洋民俗音楽風のテーマ前奏の意味がはっきりする。「メロディ」は「旋律」つまり「旋回する律」でもある。

  鈴愛は聴こえない左耳のことを「小人たちがポリネシアンのメロディで踊っている」とも言っているから、このメロディはゾートロープの小人たちを踊らせるものでもあろう。

  「律」と「伊藤清」であるなら、旧制恵那中学校始まって以来の秀才と言われ、第一高等学校の時代から反政府運動を主導した共産主義者の「伊藤律」が思い浮かぶ。伊藤律は瑞浪市土岐町の生まれであるが、奇しくもその近くでもロケが行われている。この律は戦後中国に亡命して、28年間消息不明であった。 


タイトル映像の暗示

  タイトル映像で、鈴愛が持って走る彩色リボンのひらめかせる風は、扇風機の「そよ風」を予告し、ビニール傘に描かれている1羽の大きな鳥と3羽の小さな鳥は、漫画家の秋風羽織と3人の弟子であろう。この鳥たちは傘が旋回しないと飛べないとも言える。「鶏(とり)の歌声も 線路 風の話し声も すべてはモノラルのメロディ」の歌詞も、半分が青い挫折の連続で、遠回りの世界を歌っている。「とり」が「鶏」であるのは、飛べない鳥であり、失敗した卵料理の鳥の映像もそれを暗示している。「秋風羽織」も鈴愛と律の連名宛に、扇風機開発を励ます手紙を送るなど、2人を結びつける役割を担う。羽を折れば鳥は飛べないが、扇風機の羽は折れ曲がっているから、「羽織」とは爽やかな「秋風」を送る扇風機の羽の「秋風羽折」であるのかもしれない。この手紙の封筒の裏に差出人秋風の本名が「美濃権太」と括弧つきで書かれている。その名は少女漫画向きではないかもしれないが、いかにも五平餅好きになりそうな名前である。鈴愛は東美濃農協の就職を蹴って美濃権太のところに行ったということである。

  電線の五線の音符は、「涙零(こぼ)れる音は、咲いた花が弾く雨音」の前半であるが、鳴っている音楽とずれて、遅れて現れる。鈴愛が書いている音符はその冒頭の「涙」の部分である。焦げたトーストの星空の天の川、皿を重ねたバースデイケーキは、7月7日の二人の誕生日とその誕生日プレゼントを暗示している。 


生と死のはざま

  以上のように、このドラマはハッピーエンドの恋愛の物語の装いが凝らされている。しかし、本当のテーマは「生と死のせめぎ合い」であると言えよう。

  それは、震災の犠牲になった鈴愛の親友の裕子(ユーコ)が死ぬ前に残すメッセージ「生きろ鈴愛!私の分まで生きてくれ!生きて何かを成してくれ!」が語っている通りである。鈴愛が最後に会った時の裕子は、真っ白い服装で「病院は生と死のはざまであり、窓から見える夜の海は、波が静かなほど、暗黒な闇に吸い込まれそうで怖い」「私を、生の世界につなぎ止めて、連れ戻して」と言う。これは間近に迫った死を意識した誰かの思いを裕子が代弁しているようでもある。

  そして、ここで2人は抱擁し合うのであるが、ここの2人の構図と動き、バックの音楽は、最終回で全くそのまま、共に生きることになる律との抱擁でデジャブのように繰り返される。鈴愛は遺骨になった裕子も包容するから、「生死のはざま」から「世界が半分になった」死の抱擁、そして「全部が青くなった」生の抱擁の間に鈴愛はいるのである。そしてこの抱擁のときの音楽は、律との抱擁の方だけにウエディングベルが鳴って、鈴愛と律が結婚することを暗示している。

  鈴愛が生まれる前の胎児の状態から語られるこのドラマは、生以前と死以後に関わるものである。全長100mの糸電話は生まれる前の胎児の世界と交信し、三途の川を渡った祖母と祖父の連絡のためのものである。鈴愛の祖母は死者の世界から語り、裕子だけでなく、祖父と律の母の和子(わこ)もこの世に伝えるメモを残して生者と繋がり、死んだ後も鈴愛と律らの心の中で生きている。

 「生まれるのも死ぬのも特別な事やない」「悲しみを乗り越えたわけではなく、悲しみと共に生きている」「死んでしまった人たちがいなくなった訳やない。ここにおる」とは妻を亡くした律の父親の言葉である  7月7日の鈴愛と律の同時誕生に関わった女医も、「ほやな、ここにおる、私らは生と死のはざまに生きてる。みんなそうや。ほいで やがて死ぬ。今は生きている。生まれることがめでたくて死ぬことが哀しいっていうのは乱暴な気さえするんや」と言う。

  タイトル音楽の歌詞の「おはよう 世の中」「おはよう 真夜中」は奇妙である。真夜中に「おはよう」はないから、「真夜中」は「世の中」の語呂合わせであるとしても、「世の中」もそのままでは変であるから、「この世の中」「あの世の中」と聞くべきなのかもしれない。  車に轢かれた白い犬を助けて、市立高校受験を棒に振った律は、なぜか悟りの境地「涅槃」を体験し、「葬送行進曲」を弾く。「涅槃」には「寂滅」つまり死の意味もあるからであろう。ピアノの「葬送行進曲」と言えばショパンである。犬を助けたショパンなら「子犬のワルツ」の方がよさそうであるが、何か深い事情があるのであろう。『ポケットにいつもショパンを』をタイトルごとに順番に鈴愛に貸すのは律であるが、この少女漫画を何年もかけて全巻揃えたのは母親の和子であろう。ここで「和子」「ショパンの葬送行進曲」の連想で、和子の死が暗示されている。糸電話のように異界から聴こえてくる岐阜犬の声が和子であるのも象徴的である。

  生まれる前の胎内の鈴愛が「うるさい!」と怒るのは、往年の漫画の台詞「力石、死んだ?」と言っている父親に対してであり、「死んでくれ涼ちゃん、そうしたら許してあげる」と怒りをぶつけるのは離婚を切り出した夫に対してである。

  そして、東美濃市梟町の実家の食堂での、7月7日の扇風機のお披露目では、律の挨拶「死んでしまった人たちは、死んでしまったわけだけど。その思いは、ずっと残る。それを受け継いで生きていくんだと思って、(扇風機を)作りました」を受けて、鈴愛が「ありがと。ユーコも、和子おばさんも、ここにおる人も、おらん人も。みんなありがと」と涙を流すと、余命宣告を受けている母親の晴が「違うよ鈴愛、みんなおるよ」と言い、「そやな、みんなおるな」と鈴愛は納得する。

  ちなみに、「山城」で有名な岩村城下の商店街の名前が「梟(ふくろう)」であるのは、司馬遼太郎の『梟の城』から採られているのであろう。主役の「手練(てだれ)」の伊賀忍者が「風間五平」であるからである。   


佐藤一斎と平田篤胤

  このドラマで語られている死生観は、佐藤一斎の説くところによく似ている。一斎は梟町のモデルでロケが行われた岩村のある旧岩村藩の出身で、今日の我々が継承している日本特有の道徳観を確立した幕末の儒学者である。

  死者の魂は生者に寄り添って存在するという日本的な宗教観の方は、『霊能(たまの)真柱(まはしら)』などを書いた平田篤胤による。この平田神学は島崎藤村の『夜明け前』でも、尊王攘夷に通じるとして論じられている。タイトル音楽の「線路 風の話し声も すべてはモノラルのメロディ」は「千の風の」とも聴こえてもおかしくないのかもしれない。

  佐藤一斎はこう説いている。

 「我の生まるるや、自然にして生まる。生まるる時未だ嘗て喜ぶを知らざるなり。則ち我の死するや、応(まさ)に亦(また)自然にして死し、死する時未だ嘗て悲しむを知らざべきなり。天之を生じて、天之を死せしむ。一に天に聴(まか)すのみ。〜 死の後は即ち生の前、生の前は即ち死の後にして、而して吾が性の性たる所以の者は、恒(つね)に死生の外(そと)に在り。〜 」(『言志録』第137条) 「生は是死の始め、死は是生の終り。生じざれば則ち死せず。死せざれば則ち生ぜず。生は固(も)と生、死も亦生、生生之を易と謂ふとは、則ち此なり。」(『言志晩録』第285条)


 2018.10.14 古山和男

リコーダーアンサンブル ハミングバード・リコ

東京都調布市で活動するリコーダーアンサンブル。1984(昭和59)年の市主催講座をきっかけに1985年に結成。指導者はリコーダー奏者 古山和男 先生。音には厳しくも穏やかでわかりやすい指導をされます。調布市文化会館たづくり等で月2回練習(平日(主に火曜日)AM)。メンバー約20名。ホールでのコンサートの他、有志で地域の小学校、学童クラブ、福祉施設、高齢者施設でミニコンサート実施。

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